その47 足半を適切に解説した本を発見

この記事は約6分で読めます。

『歴史家の遠めがね・虫めがね』高橋昌明著に足半について書かれていると知り合いからすすめられました。

早速買ってみると、70Pに【日本人の歩き方】として載っていました。

すばらしい!

わたしが足半を復刻するきっかけになったことも後半に書かれています。かなりバッサリと(^^;;;

現在でも足半は手に入ります。
しかし、その使い方が一時期流行ったダイエットスリッパ。

せっかくの先人の知恵を形だけ真似して、正しい使い方を伝えなくては意味がない。

正しいモノがないのなら、自分で作ってやろうと始めたのがこのプロジェクト。

全文を書き起こしたので、ぜひ一読ください。

↓まちがった足半の使い方。

日本人の歩き方

「たそがれ清兵衛」に続く山田洋次監督の話題作に、「隠し剣鬼の爪」がある(二〇〇四年映画公開)。
劇中、時代背景が幕末らしく、下級藩士たちが西洋式の軍事訓練を受ける場面があった。ところが手足がばらばらで、銃を担いだオイチニの行進や回れ右すら満足にできない。あまりのぶざまさに江戸から招かれた教授役がイライラする。

映画をごらんになった皆さんは、オーバーだと思われたかもしれない。我々なら、なんなくやってのける動作だからである。しかし、おそらく幕末の各地で、実際に同様の光景がくりひろげられたに違いない。幕末までの日本人の集団行動への習熟の度合いや歩き方は、近代・現代のそれとはかなり異なっていたからである。

この行列、江戸府内や大名の城下町・宿場町に入るときなど、町人を雇って数をそろえ、外に出ると半減させた。長い供立(ともだち)のまま通行しては一般の通行人が迷惑するので、行列を一ノ切・二ノ切・三ノ切と間を一〇間(約一八メートル)ぐらいずつあけて通行する。いつも同一編隊を組むのではなく、場所によっては半行列と称する簡略なものになる(※1)。歩く速度はけっこう速いが、必ずしも整然とは行動していないのである。

つぎに歩き方が違う。我々は普通左足と右手、右足と左手を交互に前に出して歩く。つまり体の真ん中に一本の軸を置き、それを中心に腰と肩を反対方向にねじる歩行法である。かかとで着地しつま先で地面を蹴り、左右の手足が交互に出る形になる。

しかし、近代以前までの歩き方はそれとは違っていた。この歩き方の具体相についてはいろんな誤解があったが、近年「常歩(なみあし)」と名づけられ、スポーツ科学的な解明が進んでいる(※2)。常歩は、両足の立ち幅を骨盤幅に保ったまま、身体に左右二本の軸を置く。そして、両足は二直線の上をそれぞれ通過する二軸動作の歩行法である。つまり、体幹をほとんどねじらない。

この歩行では、着地した足が前に出るとき、同じ側の肩・腕が同時に前に出る。着地と離地は地面を蹴る感覚ではなく、足裏全体がぱっと一瞬に離れる感覚となる。つま先とかかとで地面をつかむ感じだから、足はガニ股、また左右の軸へのスムーズな重心移動のため、膝はやや曲がり腰は落としぎみ、あごも少し上がる。こうした動きは、相撲のすり足、空手の蹴りや突き、能・歌舞伎などの伝統芸能の所作などにいまも残っており、日常では五歳ごろまでの幼児の歩き方に見られる。

それがどうして現在の歩き方になったかといえば、学校教育と軍隊の影響が大きい。日本では、一八八六年(明治一九)の学校令以後、必修教科として体操科が導入された。体操ではドイツ体操に、小学校では男子に「隊列運動」が、中学校や師範学校では「兵式体操」が教材として加えられ、歩き方も西洋式に矯正されてゆく。

兵式体操とは、陸軍で兵士の訓練のためにおこなう集団行動のさまざまな形式で、秩序を守る習慣や精神を養うことを主な目的とするものだった。いまでもおなじみの「まわれー右」「右向けー右」の号令は、この兵式体操のなごりである。また、運動会は日本でのみ見られる学校行事である。これも体育による集団訓練の成果を発表する機会として、奨励された。こうして近代は日本人の日常に集団行動をもちこみ、歩き方まで変えた。

近代以前の走りや歩きにふさわしい履き物がある。足半(あしなか)という。かかと部のない文字通り足の半ばぐらいの、半円形の草履である。普通の草履や下駄を履いて歩くと、かかと部が浮いてパタパタとかかとを叩く。俊敏な動きをするのに、履き物のこの動きはじゃまである。

足半では足指も台座のつま先から出て、指やかかとが直接地面に着く。速く走るときは、かかとで着地しないし、かかとで地面を蹴らないからかかと部が要らない。かかとを下げないようにして、下腿を前に倒す(膝を前に送る)。つま先着地で着地の衝撃を吸収する。低速で走ったり歩くときはかかと部がないので、かかとが地面に着きやすい。あるいは、かかとが履き物の制約を受けずに、自由な姿勢(かかとと地面の距離)がとれる。

鎌倉時代後半の絵巻物には、足半を履く武士の従者の姿が描かれている。「足なか」の語も、室町時代後期の『今川大双紙』に初めて現れる。当時は武士が戦場で履いた。神沢貞幹の随筆風百科全書『翁草』(安永元年<一七七二>刊)に、「軍中履物の事(中略)戦ひにては皆足半を履く事也。其所以(ゆえん)は働の間に草鞋の中へ土砂入て働の碍(さまたげ)と成る也、仍て各(おのおの)足半を履く事也」とある。つまり、普通の草履では、足の裏との間に土砂が入って、戦場における活躍のさまたげになるからという。これも足半の効用として大事な点だろう。

『信長公記』によれば、織田信長も天正元年(一五七三)の刀根山の戦(現福井県敦賀市)で、敵の首を取ってきた素足の金(兼)松又四郎に、日ごろ自分の腰に付けていた「御足なか」を与えている。

足半は近年まで農村・漁村で作業用に用いられてきたが、さすがに昨今は姿を消した。と書いて、すぐそうでもないことに気がついた。なんと世間には、次のような宣伝文句が出まわっているではないか。

「脚スッキリ! 美脚美人へ、只今、大人気中! ××(メーカー名)にしかない足半サイズを改良してさらに効果的! テレビ放映ではじめてお知りになったお客様もおられますが、××では、お客様のお声で開発して以来ずっと人気の商品なんです」。かかとをあげるから自然に足指を使う。だから足の筋肉を鍛える。土踏まずへの刺激が心地よく、つま先立ちの効果で、足のむくみや肩こりなどの解消になると主張する。加えて「すっきり脚」になる。エステ効果もあるらしい。

しかし、これは足半本来の歩き方ではない。営業妨害の意図は毛頭ないが、かかとを浮かしてつま先立ちでいると、足の前側と後ろ側の拮抗筋(互いに反対の働きをもつ筋肉)同士が緊張しっ放しの状態になり、逆に下腿が太くなりそうな気がする。どんなものだろうか。

(1)児玉幸多『日本の歴史18 大名』小学館、一九七五年
(2)木寺英史『本当のナンバ 常歩』スキージャーナル株式会社、二〇〇四年

神戸大学名誉教授・高橋昌明著
『歴史家の遠めがね・虫めがね』(角川学芸出版)より

昔の文献も見ても踵を浮かせているモノはないです。

タイトルとURLをコピーしました